ものづくりの
現場

主張する箒と無名性①

文・吉田慎司 

「民藝」とは、「民衆的工芸」を略して名付けた言葉とされています。
勿論、100年ちかく前の話なので「民衆」も当時とは全然違っています。民藝が生まれた頃、都市における工業化が進む一方で、ある民衆は野山と共に暮らし、自然の恩恵に預かり、昔ながらの暮らしをしていました。民藝では後者のような、地域地域の素朴な手仕事を多く取り上げています。そのような民衆の道具が美しい、と考えることは、自然と共に生きた人々の歴史や、在り方が美しい、と考える事なのだと思います。

無銘で、いられなかった
 民藝を語るとき「無銘性」という事がよく挙げられます。銘、とは工芸品などに制作者を表示する事。その独創性や個性を保障するものと言えます。作家やデザイナーが何かを創作し、主張や意図するとすれば、「無銘」のものは、長い歴史の中、無数の作り手を介して自然と出来上がってきた形や在り方といえるはずです。必要の中で自然淘汰、ろ過された結晶のようなもの。暮らしの中で、導かれるように育ってきた物の佇まいと必然は、「〇〇の作」などと特定できるものではなく「無銘」となるのだと思います。
 そうなると、人の暮らし、営みの中でおのずと生まれる仕事を美しいと感じられる人は、この無名の域に達した仕事を、美しいと思うはずです。
 僕自身も、過去の一介の職人達に憧れた身であるから、無銘のかっこよさや、隙のなさは重々承知している。そういう意味では、あまりに過激で、暴力的とも言えるほどに主張をしているのが、敢えて枝を組み合わせた、この箒なのだと思います。

何故そんなことをしたのだろう、とも思うのだけれど、思い返せば、僕なりの理由もあったように思うのです。

吉田慎司 
吉田慎司 
1984年 9月生まれ、東京練馬で育つ。 2007年 武蔵野美術大学造形学部彫刻学科卒業。 中津箒に出会い、元京都支店の職人から箒を学ぶ。