リレー
エッセイ

21世紀の民藝とは? ④

文・赤木 明登
左上:月の満ち欠けを図像化した「moon calendar」
左下:東大寺境内の土壁
「用」について考える。
 
「用」について考えてみます。
 「民藝」という言葉が発明されたときには、民藝は、もう無くなっていた。ほとんど消えかけていた。それが出発点です。
 民藝が聴いていたのは、人がつくり出すすべてのもののなかに響いていたはずの天地の刻むリズムです。それは、花が咲き、枯れて、また咲くように、石がゴロゴロと転がりつづけるように、変化をつづけながらも、同時になんら変わることなく響きつづけていました。人がつくるものの中から、シンフォニーが聴こえなくなった理由は明らかです。人も、人の暮らしも、人の営みのすべてからも、天体の運行と、一輪の花と、一個の石ころとを繋いでいる何かが失われてしまったからです。
 かつて、人がつくり出した道具から音楽が聴こえてきたのは、それをつくり出し、使う人の営みと、天地自然の営みに繋がりがあったからです。そのことこそが民藝の言うところの「用」だと、ぼくは考えています。
 一般的に「用」とは、「使用」とか「機能」といった「使うこと」にまつわる言葉だと思われています。または「普通」とか「日常」といった「暮らすこと」にまつわる言葉だと思われています。確かにそのとおりなのですが、でも、それだけでは「用」がどこで「美」に繫がっているのかが、ぼくにはよくわからなかったのです。「用」を、この世界を貫いている哲理と接続する背景として考えてみるというのは、そんなに飛躍したことではないような気がします。
左上:月の満ち欠けを図像化した「moon calendar」
左下:東大寺境内の土壁
赤木 明登
赤木 明登(アカギ アキト)

塗師。1962年岡山県生れ。中央大学文学部哲学科卒業。編集者を経て、1988年に輪島へ。輪島塗の下地職人・岡本進のもとで修業、1994年独立。以後、輪島でうつわを作り、各地で個展を開く。著書に『二十一世紀 民藝』(美術出版社)、『美しいもの』『美しいこと』『名前のない道』(新潮社)などがある。