エッセイ
21世紀の民藝とは? ⑤
もう一つのリズムがある。
かといって、ぼくは自然の中にあるすべてのものやことが、そのままで美しいと言っているわけではありません。美しいものもあれば、さほどでもないもの、逆に美しくないものさえあるのです。
もういちど、先ほどの海岸に戻ってみます。ぼくが、ある一つの石ころを手にしたのは、じつは偶然ではなかった。拾い上げる前に、ちゃんとその石を選んでいるのです。海岸にあるのは、すっきりと調った、流れるような形の石ばかりではない。あたりまえです。
打ちよせる波にもまれて、水底を石たちはゴロゴロと音を立てながらいつまでも転がりつづけている。手の中の石は、自分の時間に比べると永遠にその形をとどめているかのように思われます。
でも、そうじゃない。転がりながら、石と石はぶつかり合い、大きな石は二つに分かれ、その片割れはさらに砕かれて散り散りとなり、無数の破片となる。足元を見まわしてみると、調った形を失って、ごつごつした断面を晒している石たちも無数なのです。それらの破片も、いままでと何ら変わることなくゴロゴロと転がりつづける。やがて微かな衝突を繰り返しながら、再びより小さな丸い石へと変化していきます。多くの石は、未だにその途上にあるのです。だから、いまぼくが手にしている石は、その石にとって一瞬に現れた姿にすぎません。巌は砕かれて礫となり、礫は砂利となり、砂利は砂となり、砂はやがて形を失い海水に溶解して永遠に消えてしまう。尽き果てるまでの変化を、どこまでもつづけているはずです。
ぼくが選び、手にした一個は、偶然、そしてほんの一瞬に、天体の運行とリズムが姿として形に現れた石だったのではないか。それを、ぼくはどういうわけだか美しいというふうに感じた。その形が現れる以前の、途上の石は、そうでもなかった。そういう話です。
秩序と無秩序。その二つを交互に繰り返しながら、大から小へ、有から無へと、石はあるリズムを刻んでいる。そのリズムは、天体の運行という壮大なシステムよりも、ある意味で遙かにに強大な力で、ぼくにも向かってくる。その狭間に美醜が見え隠れするのです。
塗師。1962年岡山県生れ。中央大学文学部哲学科卒業。編集者を経て、1988年に輪島へ。輪島塗の下地職人・岡本進のもとで修業、1994年独立。以後、輪島でうつわを作り、各地で個展を開く。著書に『二十一世紀 民藝』(美術出版社)、『美しいもの』『美しいこと』『名前のない道』(新潮社)などがある。